日本代表を応援してしまいたくなる本当の理由

公開日: 13:34 お役立ち 考えたこと 社会


スポーツの国際試合になると、いつも自然と日本を応援してしまう。

性格がひねくれているので日本の敵側を応援しようとしてもしっくりこない。どうにも日本を応援するのが自分に素直な気持ちに思える。

不思議だ。国籍が同じなだけであって全く見ず知らず人たちを応援したくなる。「日本人だから」とか「そういうもの」じゃなく、訳が知りたいと常々思っていた。

それがなんとなく収まりついたので書いてみます。


※なんとなく日本を応援する場合の理由であり、代表選手の人となりとか見た目が好きだとか、チームの戦術が好きとかいう場合は該当しません

 

・日本代表を応援するのが不思議に思うこともあるよね


今年開催されたサッカーのワールドカップ、友人たちと優勝国予想などをして私はアルゼンチンを応援する設定になっていたが実際にテレビで見て応援したのは日本戦の二試合だった。

やっぱり日本だけを特に応援したくなる。でもまぁ話題に乗りたいって欲求があったからかなと思っていた。

が、ワールドカップで負けた日本代表に対する報道&バッシングに対し、元陸上選手の為末大さんが「サッカーの日本代表は責任を取るべきなのか」という記事を書いて色々な意見を集めているのを見てまた疑問がわき出した。


サッカーの日本代表に責任を取れと求めることは、許されるのか許されないのか。許されるとしたらその根拠は何か。ぜひ皆さんのご意見をお待ちしています。



という記事で、それに「期待を裏切られた」「成長をさせるために責めている」「批判をするなってことか」みたいな意見が寄せられていた。

言っている意味は分かる。が「期待するほど応援するのはなぜ?」「なんで成長させたいの?」というそもそも「なんで応援するのか」って所が抜けているので成り立たない。


日本人同士なので容姿が近い、言葉も通じる、文化も分かるというので親近感が湧きやすいので応援したくなるという事も考えたが、親近感湧いてたら負けたら悲しいだけで責めたりはしないだろう。


きっとそれ以外の応援したくなる要素があるのだろうと考えて結局はストンと落ちてくる所までいかなかった。

 

・予想外の角度からの氷解


すっきりしないまま、すっきりしないものなのでそのまま生きていたんだけれども日本人が海外で活躍する場面ってちょこちょこある。


野球選手の上原選手がメジャーリーグで大活躍した時に目にしたのが次のコピペ。



上原→すごい
上原→日本人
日本人→すごい
俺→日本人
俺→すごい ←この思考が気持ち悪い


三段論法を超えた五段論法。なかなかのトンデモ理論で、2ちゃんねるで定番になっているほどの名文。

そんなこと思ってねーよ。って思うと共にひねくれ方と論理の構成の仕方に感嘆する。

これに笑っていたんだけれど次の文章に出会ってちょっと戸惑う。有名な作家であり生化学者のアイザック・アシモフさんの文章です。


他のすべての条件が等しければ、人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する…… その人が証明したいと思っているのは、自分が他の人より優っているということなのである。応援する相手が誰であれ、その相手は自分の代理になる。そして、その人が勝つということは自分が勝つことと同じなのである



これ、上原凄い→俺凄い と言っていること全く同じなんじゃないだろうか。しかも有名な社会心理学者のロバートチャルディーニさんもこの論を支持しているそうだ。


2ちゃんのコピペは半笑いで見過ごしたど、偉い人が言っているなら気になってしまう。これについて考えてみたんです。

 

・上原凄いと俺は凄いのか


アシモフさんは上原凄い俺凄い、から更に踏み込んで応援する人が勝つのは自分が勝つことだ。とまで言っている。そこまで言う!?という感じだけれど、だからこそちょっと思い当たる事がある。


サッカーはダイレクトに「観客は12人目の選手」とよく言う。観客も、サポーターも戦っているという事だ。正に、応援していた人が勝つのは自分が勝つということ。

じゃあ、日本代表(自分)が勝ったら自分が凄くなるのだろうか。


心理学で「ハロー効果」と呼ばれる現象がある。肩書とか、学歴とか、凄い人だとその秀でている部分以外の所も凄いんじゃないかと思っちゃう効果です。


実際どうか知りませんが、キムタクって、なんとなく字も上手そうに思いませんか。キムタクがミミズののたうち回ったような字を書いてたら「なんか、意外…」って思いません?

キムタクは字が上手いから有名になったわけでないのに他が凄いから字も凄く思える、これがハロー効果ってやつですね。



で、このハロー効果、本人だけでなく、その周りにも効果が波及します。

キムタクさんが持ってるカメラはカッコいいカメラに見えるし、乗ってる車はおしゃれに見える。だから企業はCMにイメージのいい芸能人を使う。


さてこれが、サッカー日本代表に当てはまるか?と思うけれど、自分は日本人なので客観的な評価がわかりません。

なので他国のことで考えてみると、今コロンビア人の人と出会ったらば「あのワールドカップで大活躍したハメス・ロドリゲスの!」と思う(私は、ハメスさんの正面からの写真が将棋の王将の駒っぽくて好きです)。

そのコロンビア人とハメスさんには何の関連もなくても(国籍以外)、まず浮かぶのはハメスさんの印象。

ハメスさんが活躍する前のコロンビアのワールドカップの印象は、ワールドカップで失敗して帰国してから殺されてしまったサッカー選手。


確かめるまでもなく受けるイメージはぜんぜん違う。どっちの件もほぼ全てのコロンビア人には関係ないのに、それで印象が変わってくる。

今回のワールドカップでハメスさんが大活躍したことによってコロンビア人全体として確かに勝っている。




日本ではここまで極端に作用しないであろうけれど、長友選手が活躍してるイタリアのミラノに行った際に、長友さんの話題などで好意的なもてなしを受けた、という話を聞くとそうおかしな話でもないように思う。


と、展開してきたが、コピペの上原凄い→俺凄い。の時点で思った、そんなこと考えてねぇよ。という思い。本心からホントにそうだと思う。

 

・意識してなくても動いちゃうのでは???


この間、「歌ネタ王決定戦」というテレビ番組で知り合いの手賀沼ジュンさんという方が優勝した。


その方の出演されたテレビ番組を人と一緒に見ていた際、私は「この人と知り合いやねん!ほら!ほら!」といって一緒に飲みに行った時に撮った写真を見せびらかした。


テレビ番組での優勝は手賀沼ジュンさんの手柄であり、私の関連性は全くない。にも関わらず、このすごい人と俺は知り合いなんだよ!と伝えたくなる欲求が溢れだした。


手賀沼凄い→俺凄い である。見せられた方も何に対してなのか知らないが「すご~い」と言っていた。


この欲求、もちろん手賀沼凄い→俺凄いをやりたいと考えて生まれたものではない。この、テレビ出てる人、俺、知ってるよ!!という単純な思いである。


ではこの思いが何故発生したのか。

例えば、これが悪いニュース報道だったらどうだろう、俺、この人知ってるよ!って言いながら写真を見せるだろうか。見せないね、うん、見せない。

じゃあ、外の様子を写してカメラに4秒だけ映っていた知人ならどうだろう。たぶん、その場合は横にいる人に写真見せるより、映っていた知人に「アルタ前にいた?」って聞く。

きっとわざわざFacebookのタイムラインを遡って、一緒に写っている写真を探すのは写っている人に良いことが有った場合や、すごくなった時だけだろう。

ハロー効果などというものを考えてはいなくても、無意識でそれに影響されて行動が変わるように、こちらから自発的にする行動も自らに対するハロー効果の影響があるのだろう。

 

俺をすごくするために日本の方にはこれからもがんばってほしいです


と、いう事でお笑い種にしていた上原すごい→俺すごい。が、正鵠を射ていたという考えに行き着きついた。


滑稽に見えながらもなんとなく反応してしまうこの名コピペ、実は人間というものを正しく見抜いていたからこその面白さと引っかかりなのではないかと想像する。




マジかよ、と思わなくはないですが負けた際の強いバッシング、あれも「勝ったら自分が得られていたはずの栄光や好印象(のおこぼれ)」が得られなくなってしまうので単に悔しがったり残念がったりすることを超えているから。と考えれば腑に落ちる。



そして、12人目として自分も確かに戦っていたけれど負けたのは、自分ではなく他の人(のせい)であるという意味で行われる戦犯探し。これにも説明がつく。



少し離れた話題だけれど、日本はすごいとか、外国人が日本を褒めている、というテレビ番組があるのも納得である。




意外なところに落ち着きましたが、これで結構スッキリした気分になっているのですがいかがでしょうか。

もっといい考えや、ここは違うこうだろうというご意見がありましたらどうぞお知らせください。



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